プッシュ The ボタン

 

融合の巧み チーム「グラスホッパー」の魅せる メディアの錬金術








先日 「シルバー事件」 という
アスキーから99年に発売された作品を購入して現在プレイしてる。
内部の製作チームの名前は「グラスホッパー」というらしい。

プレイしてみての俺の感想は…第一にビビッた。
まさかPS2未発売の4年も以前に、
難解と思われた映画との融合を成立させた作品がすでに発売されてたという事に。

と、言うのも
「ゲームというのは他メディアと とかく相性が悪い」
て理屈が俺の第一認識だからだ。


このメディアが他ジャンル (小説やアニメ、漫画) と決定的に異なる点は、
第三者が介在役として話しの流れに加わり、
一定の筋道を辿る事で流れを完結させる観察視点の柔軟性。

これは指定された条件分岐から発生する操作の自由が
ユーザーの思考を臨機応変に変化させるゲームの特性。
要するに 「インタラクティブ」 の持つ相互力にあると思われる。


が、故にそれを「作品」として見た場合、
他ジャンルではその特性が「迷い」として生じる為に
一方的な主張としては弱過ぎてデメリットになってしまう。
それが、融合を妨げる第一の要因にあたる。





例えば





「シャーロックホームズ」が、犯人の名を

「違うかもしんない…」

と、気弱に口走ったら、それは<ホームズ>では無くなってしまう。



「走れメロス」で、
刑に恐れたメロスが走ったまま逃げ切ってしまっても、
<メロス>じゃ無くなってしまうし。



「ルパン三世」が、真っ正直に銭形のとっつあんに騙されてしまっても、
それは<ルパン>じゃ無くなる。





が、とかくゲームにおいては、この
「○○じゃ無くなる」
部分が、作者が誰であるかと同意義に重要な要素を持ってくる。

それは崩れた部分をルールに従って立て直すという
「パズル」や「カードゲーム」の本質にもシステムの片鱗が見えるだろう。


このシルバー事件を製作したチーム「グラスホッパー」は、その崩れた部分を
「精神を欠落した身元不明の警察隊員」というキャラに当てはめる事で、
寡黙な彼を主観(主役)とした行動選択が
「一方的」
に、語りつくされる個性溢れる周囲のキャラに直接反映させる事により
<プレイヤー>と<キャラ>
の間に微妙な接点を作り、その筋をなぞる様にして進行するという、
本来ゲームの持つ「双方向性」と作品の「一方的」さを線で結ぶ事で見事に調整しきっている。


また、進行中、「画面内部」「コマンドウィンドウ」を、不規則に動き回る
文字や記号の演出が現行中の状況に直接関わるヒントを暗示するという、
「フィルムウィンドウ」の概念。

配列を無駄にする事なく「デザイン+進行」の2種に還元する事で
「映像」と「情報の受け渡し」を同時に行っている。
また、それがプレイヤーの介在により進行し変化を魅せていく。

これこそがメディアの融合がもたらした表現の発展ではないかと、
しばらく画面に見入ってしまった。



作家の個性が一方的に表出される他メディアでは、
読み手は介入するというより作り手の節に「共感」する形で
自分が求める理想と相性の良いものを選び
空想の中で一時的にその世界の住人になりきる事で、
憑依する様にして作品を楽しむ現象は
「コスプレ」や「マニア」の存在が明確に表している。

同じ様に五感の一部で捉えた作品の問題点を主観的に練り直し第三者に掲げるのは
「同人誌」「REMIX music」等の二次創作物が事実を示す。

が、それ等は側面的な見解に過ぎず、
恋に例えるならゲームが相思相愛で、
映画や小説等は一方的な片想いになる。

このシルバー事件は映像に対するゲームの「憧れ」が発想に実り、
見事「○○じゃ無い」空白をゲームの中で埋める事に成功した
俺の目に映る唯一の映画的ゲーム作品。
(サクラ大戦も成功してるが、あれは「アニメ」にあたるので)


シルバー事件から見られるこの独特の製作術には、
ゲーム業界で過去に多く失敗された他メディアとの融合による、
新世代作品を生み出す力があるんじゃないでしょうか。


とにかく、今後注目すべき製作陣として俺の頭に
「グラスホッパー」の名が刻み込まれたのは確かな事実。

続編にあたる「花と太陽と雨」もPS2で発売されているので、
こちらの方もプレイしてからまた明確な感想をここで述べようと思います。





// レポート製作 //
連射太郎


2003 8/2





Last Update : 2003/08/02